先日、知人から「お前の[まろばし]が他人の名前でUpされてるぞ」という連絡を受けまして、さっそく確認したところ、ありましたよ。アクセスも1000件を超え、海外からのコメントすらついていました。ネット社会になって、知らない所で私の曲が使われていたり、コピーされていたり、様々なことがあります。まあそんな程度では別に気にもならないのですが、こういうケースは初めてでした。私一人ではとても管理できないし、とにかく何があるか判らないので、ネット上のチェックを周りに色々と頼んでいます。

今回はタイトルの横に違う人の名前が付けられていたので、さすがにびっくりしました。とにかく作曲者としてはこういう行為をほっておくわけにはいきませんよね。勿論すぐに対処しましたが、本当にネット社会では何が起こるか判りません。
他にも私の作品「花の行方」を三味線の人が勝手に三味線用に編曲して、演奏会で弾いていたという事もあったようです。私は詳しく把握していないので対処のしようがないのですが、譜面が出版されている訳ではないから、何処からコピーが流れたのでしょうね???。勿論演奏した本人から連絡は全くありません。著作権の意識なども微塵も無かったのでしょう。
もう一つ、私の樂琵琶と龍笛の曲「月下の笛」の、笛パートだけをコピーして、タイトルはそのまま「月下の笛」で、自分で吹いてUPしていた人が居ました。当然の如く作曲者である私の名前は明記されていませんでした。演奏家としては考えられない事です。その方は、気持ちだけはプロのつもりでいるアマチュアで、著作権という事すら何のことかまるで判っていなかったようです。こちらもすぐに対処させましたが、その曲の他にも有名音楽家の曲を自分で吹いて、作曲者名を明記せず数多くUPしていました。

現代日本人は、とにかく作曲作品や音楽に対し敬意や尊敬というものを持っていない、と私は思っています。邦楽に関して言えば、著作権以前に、音楽を演奏する意識そのものが、まだお稽古事の延長上にしかない、と私は感じています。聴くより前に偉いかどうかという「格」の部分を見て、受賞歴だの師範だの総代などという肩書で、「この人はまともだ。きちんとしている」なんてことを感じるような、そんな最低レベルの意識で凝り固まっている。そこには音楽はありません。芸術に対する純粋な尊敬も敬意も無い。音楽の前には流派も独学も無く、偉いも何もないのです。たいそうな免状持っていても、聞くに堪えないようなレベルの演奏しか出来ない人が、残念ながら邦楽界にはいくらでもいます。
他のジャンルでは皆それぞれの音楽を高らかに発信しているのに、「格」をぶら下げて舞台に上がっても、世間の人にほとんど受け入れらないのは当たり前。つまり音楽をやっている訳ではないという事です。聴衆は音楽を聴きに行っているのですがね・・・・。これでは当然著作権の意識など生まれようがありませんね。
最近は中国などに対し、パクリだのなんだのと日本人がよく言っていますが、日本人自体にも著作権意識はほとんど無いと私は思っています。あれはただ真似されたから標的にしているだけです。
ライブで誰かの作品を演奏しても、著作権の申請もしなければ、使用料も払うつもりすら無い。しかししっかり入場料を取る。挙句の果てにギャラがどうのこうの、と言い放ち、何の意識も無く楽譜をコピーして使っている。それが現代の日本の現状です。ある関係者によれば、クラシックを除く他の分野では、日本は著作権無法地帯だとのことです。
私は欧米のような著作権のあり方が良いとは決して思っていません。ショウビジネスを基本に整えられた現在の著作権法には様々な矛盾があると考えています。ネット上に出している以上、コピーもされるだろうし、研究対象にもされるでしょう。時に勝手に使われることも覚悟の上です。どんどん聞いて分析して、肥やしにして、部分をパクリながら自分のオリジナルに仕立てて結構だと思います。今までの全てのジャンルの音楽家も皆そうしてきました。
私は最初にチックコリアの若い頃のソロピアノを聴いたとき、これはドビュッシーだと即座に思いましたが、チックコリアも、ドビュッシーもそれぞれが過去の作品を参考にしながら素晴らしい音楽を創り上げた。これでいいんです。これこそ創造力だと思います。私はこうして過去の音楽を元にして新たに作られて行く事は健全だと思っています。勿論私も過去の作品を研究材料にして自分の作品の糧としています。バッハでもドビュッシーでも、素晴らしいものだったら、パクられようが何されようが、いつの世に於いてもその魅力を人が支持するものです。
しかし、そっくりそのままの形でやってしまうのは、あまりにも情けない。音楽、芸術の世界とは次元のかけ離れた人間の欲の世界の出来事ですね。残念です。

著作意識は確かにまだまだ日本には充分定着していないのが現状ではありますが、youtubeやfacebookで世界とつながり、メールですら英語でやり取りしているグローバル化した現代において、自分の感覚がそのまま世界で通用すると思う方がおかしい。世界市場に於いて、日本の常識を掲げたところで、世界に全く通用しないのは当たり前なのです。村意識にもほどがある。
「日本人は成熟していない国民」という言葉は、今までもさんざん言われ続けられましたが、この現状では未だ日本人は変化も成長もしていない、と言われても仕方がないですね。現代では、音楽家もその意識を大きく変えていかなければなりません。益々器を問われる時代となりました。
活動してゆくと色々なことに当たりますが、私は過去を勉強しながらもオリジナルで勝負しますよ。