遊びをせんとや生まれけん

昨日、赤坂の料亭 金龍にて、藤山先生の舞台を務めてきました。赤阪では既に、芸者さんがお稽古する見番もなくなり、花街の姿も随分と変わりましたが、往時の趣を今も伝える金龍は、和の風情が溢れる素敵な場所でした。

        金龍3

この間のブログで素養なんて事を書きましたが、やはり「これしか知らない」というのではもの足りない。時にはしょうもない遊びもして、見たり聴いたり感じたり・・・・。人生の中にそんな時間も大切です。遊びというとなんかピンと来ないかもしれませんが、何事もそんな+αが余裕を生むのかな?と最近よく思います。
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日本では何かに打ち込んでいる姿を○○バカ等と、割と良い意味で言われることが多いのですが、一生懸命になっている姿は評価するものの、結果は二の次という事が多いですね。時には目を吊り上げてがんばる時期も大いに大切なのですが、人生音楽しかないなんて状態では、敦盛や経正を唄っても何も出てきません。

人間生きていれば、失敗も反省も多々あります。誤解したり・されたり、色々な事が社会の中には待ち受けています。しかしこんな世の中で生きてこそ、音楽も生まれるというものです。時々逃げ場も作ったりして、自分の生きて行く幅も感性も広げ、行くべき道を自分のペースで歩いて行くのが良いと思いますが、如何でしょう。

最近私は標準サイズの琵琶を時々弾いています。昨年、私の琵琶を作ってくれている石田克佳さんのおじいちゃんが作った作品をたまたま手に入れまして、克佳さんに気合を入れて直してもらった所、これが実にレスポンスが良いのです。大正時代の作品との事ですが、良く鳴るのに、イイ感じの軽さがある。私の作品にはちょっと合わないのですが、藤山先生の芸にはこちらが合っているんです。先生の芸は蝶の舞を見せながら、そこに人生を語ろうというもの。洒脱・粋でありながらジワリと迫る芸なので、音楽の方も、質の良い「軽味」というものが求められます。私の音楽は緊張感漂うようなものが多いのですが、こいつのお陰で+αが出てきそうです。良きパートナーです。

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「遊び」が無ければ、車輪だって廻らない。それは世の常というもの。時代も社会も個人も、弾力という「遊び」が無いと成り立ちません。硬いものは、もっと硬いものに壊される。強いものも、もっと強いものが必ず現れる。力でガードするようではまだまだです。時には「柳に風」で、他からの力もやんわり受け流し、揺らぎながらも決して倒れないような、しなやかな生命力が必要なのです。

何事も、過ぎたれば及ばざるが如し。孔子様も言っておられます。修行・精進・勉強だけでなく、人生も謳歌する、これも音楽の内かもしれません。
短い人生、イイ感じで遊びたいですね。

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