喜びの音楽

最近親しい友人から良い言葉を教えてもらいました。

        日の出2

「ポジティブに生きるとは、ガツガツと成功や幸福を求めて突き進んでいくことではありません。喜びを持って生きることです。自分のしている仕事、生きている環境、周囲の人々に対して、喜びの心で接することなのです。ただ、自分が好きなことを、喜びを持ってやらせてもらった。だからつらくても頑張れた。そこにまた喜びが生まれた。それだけのこと。喜びがあるから、結果として成功がついてくるのです。成功を求めて、何かをしてきたわけではありません。この順番を間違えてしまうと、人は人生の迷子になってしまいます」

私はどうだろうか。ふと立ち止まって考えました。確かに自分としては、「らしく」生きているつもりでいます。しかし本当に喜びの心で人に接していただろうか。それはどちらかと言えば「我欲」ではなかったか・・・。
先日、石原都知事は「いま日本人が何に胸がときめくかと言えば、ちまちました『我欲』の充実。痩せた民族になってしまった」と発言しましたが、自らを振り返れば確かに言われる通りです。

          kawasaki2009-11

舞台に立つということは、それ自体が自己顕示欲です。自分の音楽を聴いてもらいたいという顕示する気持ちと、喜びを持って音楽を演奏する気持ち、喜びを持って聴いている人に接するという気持ち、それらが相まっていなければ・・・・。まだまだ私にはバランスが難しい。

どんな形であれ、聴いている人の心を歓喜させるもの、震わせる音楽は、そこに喜びがあるのではないでしょうか。戦記ものなどが古典として残っているという事は、そこに喜びが有ったという事です。人が殺しあう物語は、題材はどうであれ、その物語から湧き上がる人間の姿や根底に流れる哲学、想い等々、何かしら人を震わせ、共感を呼び起こし、歓喜させるものがあるのであって、殺し合いや心中はその舞台設定でしかない。だから表面だけでとらえては、そこに「喜び」は見えてこないと思うのです。奥底から湧き上がるものでなければ!

        海1

私はこの夏、北へ向かいます。私の音楽はそんな舞台設定を超えて、喜びを持って聴いて頂けるだろうか。
目の前の我欲に振り回されていたら、そこには喜びは満ちてこない。自分を取り巻く人にも喜びが満ちてくるには、自分が喜びに満ちていなくてはならない。大切な人に喜びを持って接し、喜びを共有する時に、人間は幸せを感じるものだと思います。そんな場所にこそ安らぎがあるのでしょう。私の音楽にはそんな幸せや安らぎがあるだろうか。表面的な薄っぺらい喜びで無く、奥深い所で人を震わせる喜びがあるだろうか

         huji


上記の言葉には続きがあります。


「迷子になったら、もう一度、見守ってくれる父と母を探しましょう。それは甘えることではありません。「天にゆだねる」ということです。自分の力だけでここまで来たのではないのだから、「まあ、いいか」「なんとかなる」と思えるのです。無駄に苦しむことがありません。」

我欲を捨て、この身をゆだねることも時に必要ですね。
喜びにあふれていなければ音楽は響かないのです。

© 2025 Shiotaka Kazuyuki Official site – Office Orientaleyes – All Rights Reserved.