移りゆく季節

昨日の東京は桜が満開。昼間は絶好の花見日よりでした。

染井稲荷2善福寺2012-4-2

左はソメイヨシノ発祥の染井稲荷神社の桜。右は地元の善福寺川緑地。桜を眺めていると、気分も晴れやかになって、これからの音楽活動にも弾みを頂いた気分になりました。
相変わらず多くの人と会い、話をし、とてもとても元気をもらっていますが、長かった春休みもそろそろ終わり、琵琶を手にする機会も増えてきました。活動開始です。

桜は人間を喜ばせるが如く毎年咲きます。在原業平や西行の気持ちもよく判りますね。桜を見ていると、満開の姿にその生命力の全てをかけているかのように思えてきますが、今が盛りと咲き誇る大木も、一年の内に輝くときはほんの一瞬。大木たりとも、やがては朽ち、その命を全うして果てるのです。命あるものならば、毎年同じということはあり得ないのが世の中というもの。

楽曲もいつまで経っても同じというものはありません。形に囚われていては、形骸化してその魅力も輝きも失せてきます。古典でも流派の曲でも常に創造性を持って取り組まなくては、ただの焼き直しに終わって、その命を保てない。ちょっとアイデアを加えた位では、とても輝きません。すぐに見すかされてしまいます。これは自分の作った曲にも言えることで、自分がいつ演奏しても新鮮な気持ちでその曲に向かっていけなくなったら、もう演奏は出来ないのです。
善福寺2012-4-1
善福寺川緑地


昨年から「二つの月」という尺八二管のデュオ曲を、尺八琵琶のデュオに直そうと思って、ぐずぐずしていたら、来月ライブを一緒にやる尺八の方に「是非やってみたいのでがんばってくれ」との嬉しい言葉を頂き、ただいま再挑戦している所です。
この曲は元々はチェロと琵琶のデュオ。それを尺八二管に編曲し、今度また琵琶と尺八に姿を変えている。色々な魅力があるから変わる事が出来るのか、それとも姿を変えないと生きて行けないからなのか・・・・。
私の作品がこれから、他の誰かによって演奏されることがあるかどうか判りませんが、流派を作って伝承させても、形骸化に陥る例があまりにも多いので、私と面識のない一演奏家が意欲的に取り組んでくれると良いですな。激しい創造力を持って、私の作品に新たな命の煌めきを与えて欲しいものです。

          ハイフェッツ

バッハの無伴奏Viソナタ&パルティータをこの所よく聞いています。この曲は演奏者によって全然違う。いつの時代も色々な演奏者に色々な想いを持って演奏され、その生命力はどんどん豊かに増してくるようです。それはどの時代にあっても創造性を掻き立てられる魅力的な作品だからこそ、ますます輝いて行くのでしょう。譜面上は同じでもその内面は、演奏者の凄まじいまでの創造力によって様々な変化をしてきているのです。

ヘラクレイトスヘラクレイトスの「パンタレイ」(万物流転)」と言う言葉をご存じでしょうか。命あるものはもちろんのこと、一見変わらないような物体でも、芸術作品でも、時代により、人により価値や意味が変わり、存在自体が変化している。これが人間の作り出す社会に於いての、万物の姿なのだと思います。人間が作り出すものには全て命があると思えば、自然界のものでなくとも確かに納得です。

変わらないものは無いのかも知れません。古典と言われるものは正に内面変化の代表みたいです。変わらないもの、それは「万物は変わるという事」位でしょうか。

私自身も、日々の出逢いや経験によって常に多くの変化をしています。しかしそれらが次のステージに私を導いてくれるのです。

さあ、舞台に向かいますか。

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