先日、ティアラこうとうでのダンス公演「実る季」は無事終わりました。
かじかわまりこ&花柳面萌(リハ時)
踊りと一緒にやるというのは本当に大変で、演奏だけでなく、舞台に合わせて作曲・編曲したり指導したり、色々とやることが多いのです。しかしながら一番の課題は、どこまで踊りと対等にぶつかって行けるか、というところではないでしょうか。主従の関係では良い舞台は出来ません。私は何故か踊りと一緒にやる舞台がとても多いのですが、本当の意味で満足行く舞台はそう多くはないですね。それだけに毎回毎回気合を入れてやっています。今回も面白い舞台となりました。ストラビンスキーとディアギレフのように、とことんがっぷり四つに組める機会がいつか欲しいもんです。
舞台の写真がないのですが、楽屋写真をちょっとご紹介。
しかし人間は難しい。個人の「価値観」がアイデンティティーになり、イデオロギーになり、結局その違いから罵声飛び交う状況となってしまうこともしばしば。人間は一度「これはこういうもんだ」と思い込むとなかなかその感覚を変えることが出来ない。
薩摩琵琶は、その誕生の時が軍国の時代であったし、今でもそういうイメージしか見ずに「忠義の心」みたいなことを大声で歌って自己満足している例も結構あります。それは価値観というより、酔っているとしか見えないし、吐き出しているに過ぎないと私は感じます。音楽とは思えませんね。
同じ吐き出すにしても、パンクロックのように、70年代に生きるイギリスの若者の心の叫びとして、世界中で共感を得て、既成概念を壊し、新たなものへと向かうエネルギーとして音楽を越えて、美術、ファッション、哲学とあらゆる分野にわたって支持されていったのなら、それはそれで時代が求めたという事なのでしょうが今この時代の日本で「忠義の心」を歌っても誰が共感してくれるのでしょう。次代を生きる若者に共感を得られるとは私には思えない。
音楽や演劇はいつも時代や政治に利用され、様々な「色」が付いて行くものですが、そこに乗らずに、本質を突いて、音楽本来の魅力を発信してゆくのが芸術家音楽家ではないでしょうか。
これは、このブログでお馴染みの京都の森修さんが送ってくれた、先日9月1日の悟りの窓の写真です。皆さんには、これがいつも載せているものと同じに見えるでしょうか。違って見えるでしょうか。
人は、物事の一面を見るのがせいぜいで、全てを見ることは出来ない。自分の抱いている我見と価値観を取り違えていたら、自分で自分の想念に振り回されているだけで終わってしまう。
聞いてくれる人の心が豊かに広がるような、静かで大きな音楽を届けたい。そんな音楽家でありたいものです。