先日、香川一朝さんの告別式に行ってきました。悲しいという気持ちはもちろんですが、それ以上に、この事実を受け入れていかないといけない、という気持ちの方が切なかったです。一朝さんも自身の死を受け入れて、旅立って行ってくれたでしょうか・・・。
時間は過ぎ去るばかり。直ぐ次の日には静岡へ行ってきました。そして今日は毎月担当している松庵舎講座の最終回、とめまぐるしく動いてきました。時というものは意思があるかのように、留まる事をせず、生きている私達もまた、止まるということがないのですね。そんな流れ行く時間の中、静岡では空き時間に、静岡県立美術館に行って、小谷元彦展を見てきました。
ご存知の方も多いかもしれませんが、まだ30代という若い感性が、縦横無尽に炸裂している、素晴らしい展覧会でした。生命の奥底にある真実が暴き出されるようで、見る者をグイグイと引き込んでいきます。30代という若さは、確実に新しい感性を持っていて、アニメやフィギュアなど、年配の方には受け入れがたいものも、全く自然にその作品に内在されています。そして何しろレベルが高い。こういうのを見ると、ショウビジネスばかり追いかけている音楽界がかなり遅れているように感じますね。
生々しいまでの生命の有様が描き出され、時にグロテスクなまでに表現される作品は、現代というより、先の世を向いているように思いました。
惜しむらくは、使われている音楽が、通り一遍の電子音楽だったことでしょうか。彼はあまり音楽には視線が向いていないのかもしれません。でもきっと彼は、そういう「もう一歩」をどんどん軽やかに越えてゆく事でしょう。
その後は、人間国宝 芹沢銈介の作品を堪能してきました。芹沢は静岡県の生まれ。それも芹沢美術館のある登呂遺跡は、私が小学生まで生まれ育った所なのです。もうあの辺りはすっかり昔の面影は無いですが、久しぶりに故郷に帰った気分になりました。
民芸運動の柳宗悦の考え方に感激し、数々の作品を生み出してきた芹沢の作品は、見ていて何の威圧感もありません。前述の小谷の作品の対極といって良いでしょう。作品に接していると、静かだけど、豊かな人間的生活が感じられ、優しい気持ちが満ちてゆくような安らぎを感じます。さすが柳宗悦に感激しただけあって、生活の中にこそ映える素敵なものばかりでした。素晴らしい!!
芹沢の作品には、地道ながら心豊かに生きる生活が見えてきて、小谷の作品には、生命の裏側にある、普段では見えない真実が見えてきました。
生命は、太古の昔のその誕生から、一時も途絶えることなく、どこかで生まれ、またどこかで消え、そして色々な形で受け継がれています。その連鎖は単に動物的有機的なものだけでなく、感性としても受け継がれ、様々な世界がそこから誕生して行きます。静岡で見た二人の芸術家の感性もまた、確実に私の中に繋がってきました。
虹は遠いものを繋ぐ「かけはし」です。会ったこともないドビュッシーや永田錦心の音楽も、芹沢や小谷の作品も人間の力では図りきれない、もっと大きな存在による「はからい」によって、私のような小さな存在に繋がってゆきます。これが縁ということなのでしょうか。人間がコントロールする世界では無いですね。
一朝さんの音はもう響く事はありませんが、その感性は継承され、新しい音楽が生まれ、新しい感性がそこから誕生して行きます。個人の人生の営みが、色々な所に影響を与え、他の人生を育ぐくむ要因となってゆくのです。私の演奏や作曲にも、もちろん先人の色々な音楽が宿っています。そして一朝さんのあの音もまた、しっかりと私の中に宿っています。
こうして人間はあらゆるものを受け継ぎながら、留まることなく生命を全うしてゆくのでしょう。
だから、人間の小賢しい頭で作り出した特定のイデオロギーや主義主張を掲げて、その世界からしかものを見ない姿勢は不自然だ、とつくづく思います。一朝さんの死を目の前にして、更に色々な芸術の躍動を見て、私は、あらゆるものを受け入れてゆく姿こそ、命を授かった者の仕事なのだ、と思いました。
2011年祇園祭
さあ、真夏となりました。これからも私達の命を全うすべく、心豊かな営みをして行きたいと思います。