いつもこのブログで紹介している花の写真は、京都の呉服屋さん 座工房の森修さんから送られてくるものを使わせてもらってます。森さんは毎日のように御所やお寺などに行っては、写真を撮って送ってくれるのです。
沙羅双樹
この時期は紫陽花が一番人気ですが、沙羅双樹(夏椿)も見逃せません。琵琶にも縁の深い花ですし、毎年この沙羅双樹の写真が送られてくるのが、とても楽しみです。
そしてもちろん紫陽花も色々あります。
実に表情豊かですね。紫陽花という名前で一括りには出来ませんね。花はぱっと見れば、同じ種類は皆同じ様にしか見えませんが、実は一つ一つをじっくり眺めていると、個性を豊かに競っているのです。
こちらは花菖蒲。如何ですか。実に艶やかで、眼差しを感じるようです。左から「舟遊」「深海の色」「長正殿」「追風」という名前が付いています。
人間はカテゴリー付けが好きな生き物です。いろいろなものを分類したがる。しかし、いくら区分けした所で個性はどうにもならない。人間のエゴで、夫々の個性を矯正して同一にしようと思っても、命あるものというのは、同じものが何一つ無い。それが命というもの。夫々の個性もまた、作為を持って作り出すことが出来ない。それなのにダイエットでも整形でも、皆目指すのはステレオタイプの形なのが、なんともおかしいですね。
我々は「生かされている命」だと仏教では言います。自分で選択して今生に生まれてきたわけでなく、「何かの力、はからい」、そんなものによって今生きているということだそうです。出会いもまた、「はからい」によるものでしょう。しかし、そんな「はからい」を感じながら生きていていた時代はもうとっくに過ぎ去り、現代は人間がこの地球をコントロールする、出来ると思い込んでいる時代になってしまいました。
この風景をどうして人間が作り出せましょうか
音楽の世界も、カテゴリー好きな人間は、○○流などという何だか大そうな名前がついた所で勉強すると、まともであって、自己流でやっているとだめなもの、として分類したがりますが、私はどこで何を勉強しようとも、本人の資質以上には、ならないと思っています。勉強することでいかに自分自身が見えてくるか。稽古とはそういうことだと思っています。
教育と言うのはとても大事だと思います。これからの世の中に於いて一番大事になるとも思っています。しかし、いくら○○流で勉強しても、大して上手にもならない人、上手になってもただの優等生、そんな人もいる。逆に独学でも世界を舞台に大きく羽ばたいてゆける人もいる。例えば武満さんなんかその代表ですね。結局はそれぞれの器。これも「はからい」によって与えられたものでしょうか。
残念ながら、琵琶の流派は能や歌舞伎の流派のように、歴史を経て、豊富な知識と経験が蓄積された場所ではないのです。明治後期の40年代にやっと流派という概念が生まれたばかりですから、いたしかたないですが・・・。今後は良い意味で流派というものが存在してゆくと良いですね。
花は余計な事を何も考えず、ただ与えられた自分の個性をそのままに精一杯咲かせます。でも人間はそれが出来ない。「はからい」に身をゆだね、与えられた命のままに生きることが出来ない。もし「はからい」を感じて生きていたら、この唯一無二の奇跡の存在としての自分そのままに生きることが出来るのではないだろうか。
花のように与えられた生を、あるがままに生きることは、この人間社会では難しいでしょう。しかしこんな時代でも個人の内では「はからい」を感じながら生きる事は、少しづつ、ささやかに出来そうです。