未だ大地は落ち着かず、花見も大分地味に終わってしまいましたが、被災地では未だ春の到来に程遠い事でしょう。

そんな中、私は音楽をやっているのですが、今切に思う事は、価値観を変えてゆくべき時に遭遇したということです。従来の価値観では、もはや社会が成り立たない。ヤンリーピンの舞台でもそうでしたが、強く・大きく・重く・圧倒的なパワー主義はもうそこには無い。次なるヴィジョンや哲学が無ければ、社会は崩壊しかねないと思います。以前からすでに言われていますが、現実として消費・経済・生活等あらゆる面で、今までの価値観が通用しなくなってきていると感じています。
先日、邦楽人と話をする機会がありましたが、あまりに前時代的な価値観にちょっと驚いてしまいました。そこで、長年不思議に思えてならない事がやっと理解出来たのです。いわゆる「芸」なんていうものを身につけると、価値観を変える事は出来ないのでしょうか・・・・・。
これは常に国内の演奏会で持ち歩いている我が愛器。この琵琶は私のスペシャルモデルであり、私の考えている音楽をやるためには必要不可欠の傑作です。
私は、自分が演奏するにあたり、何故その曲を演奏するのか「どんな意味があるのか」etc.常にそういう問いかけを持って、自分がやるべき音楽や曲をやっています。
邦楽や琵琶の人達のやる曲目を見ると、なぜそういう曲をやるのか、理解出来ないことが多かった。まあプロでも無いし、単におさらい会の延長でやっているんだろう位に思っていたのですが、その謎がやっと判りました。

例えば語りものを聞かせたい人は、その語りの熟練さ、つまり「芸=技」を聞いて欲しいのであって、作品や世界観では無いのです。だから自分のやる曲に、自分の思想や哲学やヴィジョンというものをあまり持ち込まない。「芸」や「技」を聞いていただくのが仕事だと言う。私は自分が考えている世界観、そして作品を聞いてもらうのが仕事。だから上手下手はあまり関係なく、伝えるべきものが伝われば良いのです。
基本が随分と違います。話をしながら、目指すものの根本的相違がよく理解できました。
上の写真は、武満徹と鶴田錦史。正に芸術家と芸人の対峙であります。「芸」を練り、独自の境地を開き、「芸」を聞かせる事をずっとやってきた鶴田に対し、自分の哲学表現として音楽を作曲してきた武満。二人はどんな会話をしたのだろう?何処まで理解しあえたのだろう?
芸術はギリシャ哲学の表現形態として、音楽や文学などが始まったとされます。だから西洋ではその哲学性がもっとも重視され、音大などでは音楽学が大変研究されています。日本はエンタテイメントとしての音楽か、あるいは神様に捧げるものとして始まったといわれます。そこには哲学表現は無い。雅楽も能も芸能です。唯一、尺八の古典本曲だけは、禅の境地を表すものとして西洋の芸術に近いものがあります。
確かに練れた芸を楽しみにしている人もいるでしょう。でもいくらお稽古ばっちりでも「戦艦大和」だの「常陸丸」だのやっているのは現代に於いて違和感がありすぎると思うのは私だけでしょうか。「何故その曲をやるのか」私には全く判らない。ただ稽古を積んだだけの「芸」では現代人に、その魅力は伝わらないと思いませんか?。
明治・大正の頃に、当時の感性で盛んに曲を作ったように、現代の感性で曲を作り、演奏しないのは何故なんだろう。本来「芸」であるのなら、今に生きる人の感性で成り立っているべきではないでしょうか。今はもう、「芸」ですらないのでしょうか???
現代の観点からすると、邦楽人、琵琶人が「芸」と言っているものは、表現というものとはちょっと違うと思います。いくら良い声をしていようが、コブシが上手かろうが、それはせいぜい大正時代位の感性や価値観でしかない。現代の聴衆にそんな100年も前の価値観を判れと言っても通じないのは当たり前。現代に於いて、ヴィジョンや哲学がなければ、ただの上手な「技」でしかありません。勿論その「技」も現代という社会の中で、そのやり方も変わって行って、はじめて「技や「芸」というものではないでしょうか。少なくとも私は上手な練れた「芸」より、魅力的な感性や作品を聞きたいですね。
「芸」や「技」しか頭に無いような人には、スガシカオの魅力は全く判らないんだろうな~~。「腹から声が出ていない」なんて事しか思わないのだろうね。きっと。
この間には深くて遠い溝があるのです。