静かな暮らしⅣ

この所少々体調が崩れ気味だったせいか、家に居る事が多かったのですが、今年は珍しくこの時期に演奏会も無かったのでゆっくりさせてもらいました。いつもの未来ノートにも色々と書いては消して、最近作った独奏曲も良い感じで手直し出来ました。たまにはこういう時間を強制的に頂くのも良いものです。外はお散歩日和ど真ん中なので、来週辺りからは、またうろうろしたいです。

photo 新藤義久

私は現代の情報社会(デジタル社会)には馴染めない方で、TVはもう30年以上前から持っていないし、PCもメールやブログ後はちょっとYoutubeを見る程度でとても活用しているとは言えません。以前MixiやFacebookの出始めの頃はちょっとやったりしたんですが、何か常に情報に追われ振り回されている感じに馴染めないのです。現代では情報を得られない人を情報弱者等と言いますが、ほとんどの人は情報に振り回されているだけではないでしょうか。大体自分の基本となる文化や感性の土台が無くては、どんな情報を得ても毎日驚いて面白がっているばかりで、情報を処理、活用する事は出来ません。もっと言えばヴィジョンも哲学も無い所に何を入れても、核爆弾と同じでろくな事に繋がりません。コロナ時の社会の状態は正にその象徴でした。現代人の精神の弱さが露呈しましたね。情報弱者というのは、こういうネット情報に振り回されて自分で判断が出来なくなってしまっている人の事じゃないかと思って見てました。

現代社会のテクノロジーは便利で、私自身ネット配信のお陰で世界の人に私の作品を聴いてもらっているので、有難いと同時にこのテクノロジーの社会からはもう現世では逃れられないと認識していますが、都会は人間が本来必要としているパーソナルスペースは持たせてもらえず、常に人工的な干渉に身を晒され、少なからずどこかに異常を抱えたまま生きて行くのが常態化しています。それが都会というものなのでしょうが、結構厳しく感じるようになりました音楽活動をしている限り、都会とは何らかのコンタクトを持っていないと活動は難しいですが、出来る事なら年の半分でもいいから自然の中に暮らしたいものです。里山の集落や村でのんびり田舎暮らしをしたい訳ではありません。周りに民家の無い、人間の干渉の無い広々とした自然の中で静かに暮らしてみたいのです。

 

 

この都会の中から生まれた現代の芸術は刺激的で興味深く、確かに現代社会を描き出しているけれど、音楽や芸術最先端のセンスだけでなく、リスナーを人間の根理根本にまで導いて行くものなのではないかと感じていますもう30年以上前ですが初めてアルボ・ぺルトの音楽を聴いた時に、最先端とのセンスと共に人間の根理みたいなもの(漠然としていましたが)を感じました。それ以来、自分が良いと思って好んで聴いていた音楽は皆最先端と、根理の両方を感じていたんだ、だから感激したし、未だに色あせることなく聴き続けているんだと認識しました。それがちょうど琵琶で活動を開始した頃でしたので作曲をする時には最先端であり、且つ自分なりに根理を感じるものを持つ事を念頭に置いています。リスナーが私の作品をどう判断するかは判りませんが、この姿勢はこれからも変わる事はありません。

私もそれなりの年齢になったせいか、現代の都会の中では最先端は突き進めても、根理根源には辿り着けないと感じる事が多くなりました。自分の身を少しでも自然の中に戻すことが必要なようです。

藤枝の楽園

現実はなかなか思い通りにはいきませんが、全て想い通りとはいかなくても、自分の想う所を実現する時も来るのかなと思っています。ただその時に己の肉体が自然の中で生き抜くだけの体力があるのかどうか・・・。現世では難しかもしれませんね。

 

 

 

 

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