私はウクライナにもロシアにも知り合いは居るし、イスラエルの若者に琵琶を教えた事もあります。彼は現在30代になったばかり。琵琶を持って帰国しましたが、今どうしているんでしょうね。私如きが何を思っても世は変わりませんが、世界の情報が入ってくるようになった今、「関係無いね」という体で過ごすのは難しいですね。
高野山常喜院演奏会にて 2006年
私が音楽活動を始めた80年代は日本の経済が強く、バイトしながら音楽家を目指す連中が何とかやって行けるような時代の弾力というものがありました。ネットもないので余計な情報も入って来ず、自分の見えている所だけを見ているだけでも何も問題無く自分の夢を追いかける事が出来た時代でした。琵琶に転向してからも数々の機会を沢山頂きこれ迄やって来ましたが、それは単に時代が良かったという事なんでしょうね。
これからを音楽家として生きて行こうとする若者は、また違う時代を生きなくてはならないのですが、どんな時代であれ、今自分が置かれている社会の中で生きて行くのが芸術家の定めとしか言いようがありません。だからまた新たな音楽が生まれてくるのです。是非志を持って頑張って欲しいものです。
しかし残念な事に邦楽人の意識は変わりませんね。邦楽はプロでやっている人がほとんど居ないせいか、経済的心配も切実感も無く、自分の満足優先で、世の中に身を置いて活動をしている人が本当に少ないのです。ここが邦楽の一番脆弱な点でしょう。時代と共にやり方もノウハウも、センスも変わって行くのが人間ですから、そこから逃げていてはどんな仕事でも淘汰されて行くだけです。何を受け継ぎ、何を変えて行くべきなのか。音楽家にとって一番の問題点も、邦楽人にとってはあまり関係ないのかもしれません。
私自身は琵琶の先輩達から活動のやり方や、プロの琵琶弾きとしてのノウハウは一切教えてもらった事がありませんでした。だから自分で考え、自分の音楽を創って行ったのです。私の音楽が評価されるかどうかは別として、自分で切り開くしかなかったのです。私の知識が役立つのなら生徒達には色々教えてあげたいですが、それも結局は自分の中に落とし込んで、自分で考え、自分のややり方を見出して行かない限り、自分の歩む道は見えて来ません。
以前は大枚のお金をはたいてクラシック演奏会で使われるような一流のホールを借りて、中身はお稽古の発表会のようなものを繰り返している人が結構いました(今も相変わらず)。正直腹立たしかったですね。立派なホールでリサイタルをやっている自分をアピールしているばかりで、音楽家としての気概は全く感じられなかったです。現代曲も未だにノヴェンバーステップスやエクリプスばかりで、それらをやっている自分をアピールし、あとはお稽古した流派の曲というパターンが未だに変わりません。10代20代のこれから活動をして行こうという若者なら、手弁当で大いに応援しますが、40代50代の自分の音楽を存分に表現できる(すべき)中堅やベテランが、お稽古事に終始して過去をなぞっているようでは情けない。私は琵琶に転向したのが遅かったですが、それでもT流の初めての稽古で、「ノヴェンバーステップスが霞むような曲を僕が書きます」なんて宣言したもんですがね。まあごまめの歯ぎしりという事でしょうか。
私が聴いて来た音楽家は皆、自分でスタイルを築き上げ、自ら行くべき道を切り開き、進んで行きました。琵琶なら永田錦心・鶴田錦史・水藤錦穰、皆そうです。勿論マイルスもコルトレーンも、ジミヘンもツェッペリンもクリムゾンも、ドビュッシーもラベルも同様、皆先人を尊敬し勉強も沢山したでしょうが、誰も過去の真似はしなかったし、過去に寄りかかったりもしなかった。全責任を自分で負い、自分の音楽とスタイルを創り上げて行った。弾かれたレールの上に乗っかって優等生面しているようでは、自分の進む道は見えて来るでしょうか。
ノヴェンバーステップスやエクリプスが誕生した頃の、あの熱狂は琵琶樂の次世代を強烈にそして鮮烈に示してくれました。受け継ぐべきはあの精神と志と熱狂です。それをなぞり、寄りかかり権威にしたてあげる事ではない。むしろノヴェンバーステップスは、「これを乗り越えろ」というのが次世代へのメッセージだったのではないでしょうか。そして世の移り変わりと共に琵琶樂も変わって行くべきだという勇気を鶴田錦史は示してくれたのではないでしょうか。私にはそう聴こえます。
画家や作家が作品を創るように、音楽家も創り出してこそ音楽家。お上手を披露しているのはただの技芸であり、音楽ではないと私は思っています。自分の創ったものが例え評価されなくとも、そういう活動こそが音楽活動だと私は信じています。やり方は様々あるでしょう。作曲家と組んで、次世代の琵琶樂を奏でるのも良いと思いますし、そのスタイルもオリジナルであるのが当たり前だと思います。過去に出来上がって権威とあがめたてられものに寄りかからないで、それらをぶっ壊す位の勢いが欲しいものです。永田錦心や鶴田錦史は、当時最先端で且つ最強の反逆児ではなかったですか。永田、鶴田のような気概や精神を持った反逆児をこそ今時代は求めているのではないかと思います。まあ政治家も同じかもしれませんね。
これからを担う若者には、あの鶴田や永田の熱狂と志を持って、これからの時代を生き抜いていって欲しいですね。やはり「媚びない、群れない、寄りかからない」これを忘れてはいけませんね。