無常の空

久しぶりの雨。雪になるという予報もあるので、寒くなりそうです。ここの所晴天が続き、冬にしては随分と暖かかっただけに、寒さが身に沁みますね。

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昨年12月琵琶樂人倶楽部にて 尺八の藤田晄聖君と photo 新藤義久

こんな事態の中にあると、何とかモチベーションを上げようと思い。美味しいものを食べたり、欲しいものを買ったりする方向に気持ちが向きがちですが、残念ながら琵琶法師の稼ぎでは、何事も思うようには行きません。まあせいぜい、たまにスコッチを飲む位ですかね。

分解全体とりあえずこの時期は、楽器のメンテが優先順位の一番です。自分では出来ない所のメンテナンスを石田克佳さんにやってもらっています。分解型の糸口をいじり過ぎて、貝プレートの下のスネークウッドが大分薄くなってしまったのでその部分を取り換え、貝プレートも新品にして、糸口に合わせて柱も全部取り換えをしてもらいます。分解型を使うツアーは当分無いですが、いつでも使えるように、春過ぎ迄には仕上げておきたいのです。そして後は最近考えている、もう少し厚目の撥ですね。継琵琶糸口1現在使っているものは、良い感じでこなれていて、その音に不満はないのですが、曲によってはもう少しガツンとした音が欲しい時もあります。そういう時はやはり撥の厚さがものを言います。ただ厚過ぎると腹板に当たる打撃音が大きくなってしまうので、私のように琵琶を弾き語りではなく器楽として演奏する人は、この辺はとても重要な見極めポイントなのです。

楽器が良い感じで整っていると、実に気持ちが良いのです。私は薩摩琵琶に関しては、誰よりも日々メンテをしている自負を持っていますが、同時に頭抜けた超ヘビーユーザーでもありますので、2年に一度は入院させないと楽器が良い状態で鳴ってくれません。以前は自分でも柱を削りだして作ったり、糸口の改造をしたりと、色々やっていましたが、時間もかかり、手を怪我したりすることもありますので、ここ10年程は任せられるところはしっかり任せています。まあ人間ドックみたいなもんです。
毎年春過ぎから年末迄は暴れまわって琵琶を極限まで酷使して、年明け2月から3月,4月の暇な時期に琵琶をメンテに出すというパターンが多いのですが、さて今年は春以降活動の方がどうなるか。秋はもういくつか仕事を頂いていますが、せめて夏頃からは動き出して欲しいですね。
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左:能楽師の津村禮次郎先生と座・高円寺にて
右:津村先生、詩人の和合亮一さんと福島安洞院にて
これからはもう、上の画像のような舞台はやって行けなくなるのでしょうね。大人数が集まるという事が敬遠されて行くだろうし、ライブのお店やスペースも減って行くでしょう。ホールの客席も違う形になって行って、音楽もそれに伴って変化すると思います。
人々の感性も大きく変わって行くでしょうね。大きな場所で大勢の人が集うようなスタイルが、豪勢で立派だとは思わなくなるだろうし、銀座の一等地に会社を構えるなんてのもステイタスにはならなくなるでしょう。価値観、感性、スタイルがこれからどんどん変化して行くと思います。
社会の中に居なければ生きて行けない人間は、自分達で色々と創り上げたり、また変化したりして、自分達の手で時代を切り開いているような気でいるかもしれませんが、私は、変化する周りの環境等に自分たちが対応して、共生して生きていると思っています。そしてその共生の為に想像力が必要なのだと考えます。自然環境も社会も自分たちの力で切り開き作り上げていると思っているのは人間の奢りという部分が強いのではないでしょうか。
敦盛と熊谷

最近「敦盛最期」の部分をやる機会がありまして、久しぶりに平家物語を開いてみました。しかし私は「平敦盛~月下の笛」という曲も創ってCDにも収録していながら、この所演奏する機会がなかったのですのです。考えてみれば、武勲を立てることに執心していた熊谷が、敦盛の首を取ったとたん、無常を感じて、出家して僧になったというストーリーは、今になってみると、ちょっと視点も変わって来ます。
熊谷は剛の者と書かれていますが、いわゆる生粋の軍人で、手柄を立て、その働きによって、禄を得て生きていたのです。それをもう少し違う言い方をすれば「殺人」です。手柄を立てる事しか頭になかった人物が敦盛に出逢って、自分の信じやってきた(殺人という)行為そのものに対し疑問を抱く訳です。当時の価値観としては、武勲を立てることが立身出世につながり、一族を幸せにし、美徳とされ、若者は強い武士になることをに憧れ、誰も武士の存在に疑問を持たなかった事でしょう。だから熊谷の心変わりは、周りの人々には全く理解されなかった事と思います。一族の代表として無責任だという人もいたのではないでしょうか。しかし敦盛との出逢いによって、彼は、これまで疑いもせず当然と思って頑張っていた自らの所業に目を、想いを向けたのです。

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日本橋富沢町楽琵会にて、津村先生と

今現代でも、右肩上りの経済成長をすることが素晴らしいとされ、年収〇〇だとか、凄い学歴や肩書を持っている、上場企業に勤めている・・・、そんなことが豊かさであり、それを目指すことが人生の幸せなんだと思い、その幸せを目指して皆働いている方が多いかと思います。その当然と思って邁進してきた所業はどういうものだったのでしょうか。
カカオ農園で働く子供はチョコレートを食べたことがない、とよく言われますが、一杯のコーヒーでも、大量に毎日捨てられるコンビニのお弁当でも、先進国ではさして話題にもならない事の陰には、先進国の人の目が届かない世界のどこかで、奴隷労働と飢餓で死んでゆく子供達が居る。平安時代であっても、貴族の豪華な暮らしを支えるために、どれだけの人が理不尽な想いをしてきたか・・。平家物語でも、夜戦の為に、照明代わりに近くの民家に火を付けたりする横暴な振舞いは、権力者は当たり前のようにやっているのです。今も昔も、搾取の構造は存在しています。そして今、世界との繋がり無くして先進国に生きる我々の「豊さ」は実現しないのです。

我々の「豊かさ」の陰には、熊谷が殺してきた人間たちと同じく、常に非情が付きまとうのです。現代社会でセレブだ、勝ち組だと御満悦している姿は、武勲を立ててご満悦だった、かつての武人・殺人者熊谷と同じ顔をしていないだろうか。G20なんて言っている、先進国の現代人は奢りの頂点に生きているのではないか、と私は思えて仕方がないのです。

身の回りにある物も食料も、自然環境も、勿論生命も、総てが繋がり地球は動いている、という事実が明らかになっている現代の中に生きていて、自分の身の回りにしか視野が届かない村社会的思考のままで本当に良いのでしょうか。自分の日々している所業は、まともで正しい?のでしょうか。
はからずもコロナウイルスは我々の目の前に、その現実を晒すように教えてくれました。熊谷が当然だと思っていたことに疑問を持ち、人生を変えて行った様に、現代人も今見るべきものを見ようとしないと、また新たな脅威に、今度は命まで奪われてゆくのではないでしょうか。それを業火に焼かれるというのかもしれません。

熊谷次郎直実
熊谷次郎直実 埼玉県熊谷駅前にある像

蓮の花は、泥の中でも真っ白い花を咲かせます。法然から蓮生という名をもらった熊谷次郎直実は、あの殺戮に明け暮れた空の下、自分の姿を顧みて「後生の一大事」といって、仏門に入りました。私は悟りを開くようなことは到底出来ませんが、少なくとも、世界中がロックダウンしているこの空に、次世代への眼差しだけは向けたいですね。

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