弾力

先週、神戸凱風館での演奏をやって来ました。安田登先生と、俳優の榊原有美さんと私とでやったのですが、このトリオも回を重ね、なかなかこなれて来て、今回も大変内容の高い充実したパフォーマンスとなりました。
凱風館1m
ネットに上げてくれた写真を頂きました

凱風館は合気道の道場なのですが、響きや会場の気の流れのようなものがとても心地良く、また神戸という土地もどこか自分と呼応するものがあるのか、舞台に立つ充実感のようなものを感じました。改めて自分は琵琶を背負って、色んな土地を回るのが仕事なんだなと感じましたね。

それにしても、この混乱の時期にこうして毎週舞台の機会を頂けるというのは、ありがたい事。来週も定例となりつつある狛江のプルワリにて、Vnの田澤明子先生とデュオによるライブがあります。今回はデュオの他、Vnの独奏もたっぷりと聴いて頂きます。是非お越しください。

プルワリ2020-9-5m

私の様に枠外のような立場で世間を渡っていますと、世の中の様々な話題を耳にするのですが、その中でも現代日本の「弾力」の無さという事を、この所実感しています。これは私が東京に出て来た頃から少しづつ感じてはいたのですが、このところ特に、世の中、効率の良いものや、役に立つものばかりを追いかけ過ぎるているな、と思う事が多くなりました。
ものごとを無駄と有効に分けてしまう狭い近視眼的な視野は、人間としても国家としても危ない気がしますね。都市というものは、多様性の塊であって、その多様性から異種混交が始まり、多種な芸術や文化、風俗が生まれてくる、正にメルティングポットとなる場所なのです。だからこそ皆都会を目指して上京するのです。常識・非常識、聖・俗、善・悪の境界を越えるからこそ、そこに次の時代が見え始め、アートが生まれてくるのであって、視野が限定されてしまってしまうと、一つの価値観以外の者は皆「落ちこぼれ」となり、いつしか身動きの取れない石の舟と化してしまう。メルティングポットたる都市で、多様な生き方や考え方が出来なくなってくるという事は、国家が良い方向に行っていないと感じても致し方ないですね。きっと戦前の日本などそうだったのではないでしょうか。
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六本木ストライプハウスにて パフォーマンス:坂本美蘭、尺八:藤田晄聖 各氏と
「弾力」は言い換えれば多数のレイヤーです。凶悪犯罪を起こすようなものでない限り、どういう生き方をしても良いし、様々な考え方があっても良い。年齢性別関係なく、多種多様な生き方が可能であるという事。まだわずかな隙間があるから、琵琶を背負って諸国を回るようなやつも、その中で自由に生きて行けるという事です。
専制国家でもあるまいし、ステレオタイプで、皆と同じような価値観と暮らし方をしなくても、良いではないですか。「should」の多い環境では、誰しも窮屈になってしまう。孔子様も言っていますが、「should」ではなく、どんなものも楽しむ位でちょうど良い。のんびりと世のあわいに暮らして行く人が居ても良いでしょう。芭蕉などは身分制度の枠外に身を置いていたからこそ、多くのものを自由に見て、感じることが出来たのではないでしょうか。
今、現代日本はどうでしょう?。メディアに洗脳され続け、国民全員が同じような、目に見える豪華さや、キャリアを追いかけるように先導され、それが無いと不安になってしまうメンタリティーに陥っているのではないでしょうか。「普通」という言葉で、空気を読み忖度をし、皆が同じ感覚を持ち合わせることを強要する。しない奴が居ると目障りで、且つ不安になる。

学歴や肩書、相応のキャリアが無いと、負け組だと判断してしまうような小さな狭い心が世に蔓延していて、逆に枠外に身を置いて自由に生き、感じ、ものを発信して行く人が、今どんどんと減っています。皆同じ方向を向き、単一のレイヤーの中で「落ちこぼれ」ないように常に気を遣って生きなくてはならないような世の中では、社会のストレスは大きくなるばかりでしょう。そこに豊饒な文化が生まれる訳はないのです。

コロナ禍で現代日本の、そんな脆弱な社会と精神が浮き彫りになりましたね。私がSNSをやらないのは、フィルターバブルによって強迫観念にも似た同調意識に支配されたくないからです。

4「良寛」公演の練習時、 緑泉会稽古場にて津村禮次郎先生、中村明日香さんと
琵琶法師は勿論、世阿弥も芭蕉も出雲のお国も、皆、世のあわいに自らを置き、身分制度の枠の外に居たからこそ、新しいものを創造しえたのです。与えられた既存の形を求め、自分の承認欲求に囚われているような者は、見えるものもフィルター越しに見て、五感もしっかり去勢され、ものの本来の姿は見ようと思っても、見えようがない。そんな囚われの状態の者に、どうしてものが創れましょうか。目の前に振り回され、踊らされ、創造する心を失ったものは、どんなものでも滅ぶ運命なのです。
この地球の豊かさは、その多様性こそが象徴であり特徴です。豊饒なまでに様々な生命が溢れ、実る惑星だからこそ、そこから多種多様な文化が生まれ、暮らしが生まれ、それぞれの国が生まれる。色んな物がひしめき合って、連鎖が生まれ、文化が、エネルギーが生まれるのです。全ては響き合っているのです。中には悪もあるでしょう。しかし悪であろうと、負であろうと、すべてが響き合う事で地球は成り立っているのです。自分に都合よいものだけでは成り立たないのです。
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昨年12月の日本橋富沢町楽琵会にて、能舞:津村禮次郎先生、Vn田澤明子先生と
視点を変えると、自分の生まれ育ったこの地から生まれたものは、皆必然があって生まれてくるという事も改めて感じずにはいられません。世の中には清濁あらゆるものがあるけれど、そのあらゆるものは皆根を持っていて、その根から必然に生まれ、縁で繋がり、今に受け継がれている。日本の湿潤な気候、山海に囲まれている土地、そして世界一長い歴史。それらはずっと途切れることなく続いてきたからこそ、今我々はここに居る訳で、その継承から様々な音楽や芸能も生まれてきたのです。それはどの国でも同じことでしょう。文化も暮らしも、それぞれの土地から多くのものが生まれ、派生し、影響し合って、またそこから新たな繋がりを見せ多くのものと響き合って、今に至るのです。

所変われば、感性も違うし、善悪という概念も違う。しかしそれら多様な感性と生活が交流し、共存し響き合ってこそ社会が生まれるのではないでしょうか。自分と合わない異質なものを排除してしまうような薄っぺらく狭い感性では、響き合いが生まれようがありません。流れの止まったものは、本来清らかな水であっても濁ってしまうのです。私達の身体が1秒も止まることなく動き続けているように、響き合って、常に流動してこそ命ではないですか。そこに必要なものは、それらを皆受け入れ、受け止める懐の大きさ、つまり「弾力」です。その土台がないと響き合う事は出来ません。

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ヴィオロンにて photo 新藤義久

これからの日本に、弾力が戻ってくるでしょうか。生き方を強要された中では、明日は無いですね。でも自分の中から感性は変えられます。一つのレイヤーに自分を置かず、別のレイヤーに移動するだけで、見える世界が変わります。これこそが「弾力」!!。きっと琵琶法師みたいな者は細々とでも生き残って行くと思いますよ。私が感じる範囲でしかありませんが、世の中の硬直化の反面、部分的には解放されてきている所も感じています。その流れが大きな懐となり、世の弾力となって行って多様なスタイルを受け入れ、新たな命につながって行く、そんな世の中になって欲しいですね。

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