またまた更新が滞ってしまいました。先月から続く怒涛の演奏会ラッシュで、どうにもブログまで手が回らず滞っておりますが、どうかご勘弁を。このところは日本橋富沢町楽琵会にて「四季を寿ぐ歌」の初演、神奈川県鶴見での笛の大浦典子さんとのレクチャーコンサート、セルリアン能楽堂にて「小町花伝」等々無事やってまいりました。
「四季を寿ぐ歌」演奏中
中でも日本橋富沢町楽琵会での「四季を寿ぐ歌」は、とても良い感じで初演が出来、嬉しく思っています。私にとっては初めての歌曲での新作発表でしたので、リハーサルの時までは、どうなるか心配でしたが、本番は実に良い感じのアンサンブルになって良かったです。さすがに皆さんプロですな。これで全体が見えてきたし、この勢いで何度か再演出来ればと思っています。
私は薩摩琵琶による現代音楽から雅楽の古典迄、自分の中で沸き起こる想いさえあれば、どんどんやりますので、琵琶に特有のイメージ(例えば耳なし芳一など)を持っている方には、びっくりされるかもしれないですね。まあほとんどのリスナーは面白がってくれますので、毎回ありがたいことに好評を頂いていますが、どのスタイルも私の中から沸き上がったオリジナルのスタイル。生活に色々な場面があるように、音楽にもいろいろなスタイルが我が身の中に混在しています。私は琵琶を手にした最初から「汎アジア」という観点で琵琶を弾いていますので、アジアの歴史の多面性を考えても、スタイルにバリエーションがあるのは当然の事なのです。
ちょうど10年前、高野山常喜院演奏会にて
逆に「これしかない」と演者の方が拘ってしまうと、それを維持しようとしてどんどんと無理やストレスが溜まっていくものです。また長年やっていると、そのカテゴリーの中で、自分は「かくかくしかじか」の存在であるという想いもだんだん出来てきてしまいます。そうなってしまうと常にそうであろうとして、自由な精神は影を潜め、そういう自分であろうとする姿になってしまいます。自ら檻を作っているようなものですね。邦楽全体の衰退が正にここにあるのかもしれません。
人間は必ず誰でも年を重ね老いて行き、世界はめまぐるしく変化します。そういった自分を取り巻くものにコミットしてこその芸術であり、音楽もまた時代と共に変化して行くのが素直な姿だと私は考えていますので、芸術家が一つの型に固執することは、芸術から実に遠い姿だと思っています。凝り固まった頭からはお稽古事以上のものは生まれません。
日本橋富沢町楽琵会にて Photo 新藤義久
私は自分でも気づかない内に様々なレイヤー(階層)を行き来しています。それが自分には自然であり、楽しくもあるのです。昔から日本人は集団の論理に流されやすいと言われていますが、その思考があるが故に、一つの型からはみ出してしまうと、途端に力を失ってしまう人が多いですね。負け組なんて言う言葉がそれをよく表していると思います。弾くのが上手い人は弾けばいい。歌うのが上手い人は歌えばよいのです。協会や流派に入らなくてはいけないなどという法律がある訳でなし、自由に思うようにやれば良いのです。しかし何となく所属集団の声や世間の言葉に惑わされ、これが上級、これは下級というくくりを自分でつけてしまうから苦しくなるのではないでしょうか。ステレオタイプの中に自分を閉じ込める必要はない!。特に音楽の精神は常に自由であることが何よりも第一です。集団の論理に振り回されてはいけません。
今、日本全体を見ていると、どうも一つの狭いレイヤーの中しか視点が及ばず、それ故に苦しんでいる人が多いように思います。日本では「普通」という言葉がやたらと使われていますが、こんなに不思議な言葉は他に無いと、私は常々思っています。周りの目を異常に気にする日本人は、何となく右へならへの感覚が「普通」なのでしょう。これが 現代日本の抱える問題の根本的原因のように思います。企業でもうつ病で出社出来ない方が増えているそうですが、何もサラリーマンでなければ人生全うできないという訳でないでしょう。これだけ世界と繋がっている時代に、そんな旧価値観で生きているのは、かえって危ない感じがします。
定収入は確かに必要な部分かもしれませんが、お金が先になっては、自分らしい生き方は出来ませんね。
レイヤーを超える達人 安田登先生と広尾東光寺にて
多くの視点を持ち、常識や因習から解放されて、自分の姿を見つめるという事は、これからの世の中に生きる人間としてとても重要なことなのではないかと思っています。世界中と繋がっているという事は、あらゆる価値観があるという事です。「こうであるべき、こうでなくてはならぬ」という概念を持った時、人は苦しみだします。日本人の「普通」はもう日本の中でさえ通用しないのです。
またお金を一つの価値とする考え方もすでに崩壊しているようにも思えます。お金で物事を判断するようなのは既にバブル時代の遺物でしょう。
今は、人間が生き方そのものを変えてゆく時期に来ているように思います。地球環境はどんどんと変化していますし、世界中と自由に繋がることのできるこの時代に、小さな範囲にだけしか通用しない、ある特殊な感覚で生きようとしても、生きること自体が難しくなってしまう。レイヤーを超えて、別のレイヤーを行き来すればとても楽に生きられる。そのためにも囚われを無くし、いつも自分らしくプレーンな状態でなくてはとても行き来は出来ません。お金があるから幸せなんて、そんなものが幻想という事は誰でもわかっていながら、その幻想に囚われているのではないでしょうか・・・。
自由に、国境もレイヤーも飛び越えて生きて行きたいですね。