私は琵琶で活動を開始した時から、本当に人に恵まれました。本格的な邦楽の初舞台は、まだ若手と言われた30代。四谷の紀尾井ホールで行われた長唄福原流の寶山左衛門先生の会でした。その後大分能楽堂では寶先生本人と共演をさせてもらいまして、本当貴重な経験をさせて頂きました。その後もバレエの雑賀淑子先生、日舞の花柳面先生、そして能の津村禮次郎先生など、今思えば、音楽活動の始めに錚々たる大先輩と共演できた事は、大きな財産だと思っています。
左より、津村先生と打ち上げにて、右:寶先生を囲んで大分能楽堂公演の打ち上げにて、
まああの頃は恐れを知らないといいますか、もうやりたい放題という感じでしたね。各先輩達は皆さん古典邦楽の突出した名人でもありましたが、創作を旺盛にするタイプの方々で、そういう点が私の性質にぴったり合いました。私はその創作舞台で数多くの共演をさせて頂いたのです。まだ勢いだけだった頃にこういう機会を頂いたというのは、感謝という言葉以外出て来ないですね。
そんなお仕事をさせていただく中で私が感じたのは、皆さんの桁外れのテクニックと、引き出しの豊かさですね。創作舞台ですので色々と新たな試みをする訳ですが、私は作曲・演奏込みで仕事をさせてもらいますので、古典を土台としながらも古典の形ではないものを創って行くのです。そういうものでリハを重ねて行くと、先生方の並外れたテクニックや経験が色んな形で炸裂してくるのです。新たなものを生み出して行く様は、今想い返してみても、実に実に面白かったですね。
表現活動をするにはテクニックはとても大事なのです。想いさえあれば何とかなる、と思っているのはアマチュアの発想。それでは何事も成就しません。ましてや舞台とういう場で表現を具現化するには、それはそれは深いテクニックが必要なのです。テクニックというと普通は正確に弾くとか音程やリズム感が良い、という風に思うことが多いでしょう。しかしそうした「上手」はテクニックのほんの表面の一部に過ぎません。そういうお上手さは、習った事を間違いなくやっているだけで、テクニックと言うより手馴れていると言う方に近いと思います。テクニックと言うからには、新たな世界を生み出し、それをハイレベルで具現化する位までやってこそ。その為のテクニックであり、そこまでやって初めてその人独自のテクニックが物を言うのです。
深いテクニックというものは、一見外側からは見えないものです。
以前花柳面先生との舞台リハで、一見なんてことない扇を捌く所作に釘付けになったことがありますが、手を動かすその一つの動作の中にありとあらゆる術があるのでしょう。またその背景には経験や知識、歴史や哲学等々、見えないものが山のようになければああいう捌きは出来ませんね。単に身体の使い方が上手などというレベルではないのです。逆に単なる技(早弾きや、コブシ回しなど)が目立ってしまう人は、まだまだ舞台全体、つまり独自の世界が出来てないから、部分が目立つのです。
シンプルなものほど、こうした豊穣な背景を持っていないと、舞台として成り立ちません。邦楽には一音成仏という言葉がありますが、一音を出すには、その背景に溢れんばかりの豊かな世界があってこそなのです。そこを是非次世代を担う方に判って欲しいのです。習った事を上手になぞっているようでは、いつまで経ってもお稽古事から抜け出せません。また、心の問題も大きいですね。精神の部分を別にしてテクニックは在り得ません。
現代社会の中で成り立ってこそ芸術というもの。この現代の中で、音楽家として舞台で生きるという事とは何か、自分は何者で、どういう生き方をして何処を歩いているのか。その中で自分は何をやり、何を表現したいのか、何故それをやるのか・・・・。それらの事を自覚していなければ、多少の技術を使って仕事をこなしているだけで終わってしまいます。
若さの勢いだけでやっている内はまだ良いとして、年を重ねて少しばかり手馴れて来ると、底の浅さがそのまま音に、姿に、目つきに出て、少しばかり手馴れているが故に、小手先の技が空回りして「けれん」に落ちてしまいます。身体を使う術も、豊富な知識に裏付けられた知性も、豊かな経験も、精神を兼ね備えてこそテクニックとして成立するのです。その豊かなテクニックを使い、芸術家として、その人独自の世界と作品を表現して欲しいものですね。私自身も常に気を付けているところです。
先日、昨年リリースしたCD「沙羅双樹Ⅲ」で共演したヴァイオリニストの田澤明子先生の演奏を聴いてきました。ヴァイオリンをやっている人なら、彼女のその実力はもう周知のことではありますが、先日の演奏も惹きつけられる様な素晴らしい演奏でした。あらためて彼女の音楽家としての深さを感じましたね。曲はフォーレのヴァイオリンとピアノの為のソナタOP.13。その演奏には、現実を超えた世界へと連れて行かれてしまうような風を感じました。現実を越えた何処かへと、自分の身が吸い込まれるようなエネルギーに満ち、またそこにはちょっとある種の狂気(といったら言い過ぎでしょうか)すら感じられるようなものでした。その風が私の身体を吹き抜けて行ったのです。彼女の中にある大きな世界を感じました。
数年前にも、彼女の演奏会で同じような風を感じて、8thCDの目玉曲である「二つの月~ヴァイオリンと琵琶の為の」の録音は彼女しかいないと確信し、以来ご一緒させてもらっている訳です。あらためて先日彼女の演奏を聴いて、本当のテクニックというものを感じましたね。きっと邦楽の大先輩たちと同じように、心と体が備わり、整い、確固たるものとして出来上がっているのでしょうね。ここまで至るにはきっと色んなご苦労があったことと思います。しなやかで且つブレの無い演奏は実に魅力的で、本当に素晴らしかったです。
京都 清流亭にて
今思うのは、経験や知性・知識、技、そして精神が調うことの大事さですね。そしてもっと体全体の使い方が重要ということです。古武術を少しばかり教わってきて、身体の可能性にもまだまだ奥があると感じています。体幹や重心をどう使うかということは、物理的に声にも大きく関わりますし、精神面でも大きな変化をもたらし、音楽全体を捉える視野の広さにも繋がると感じています。よく言われる「知・情・意」は結局身体に集約されて行く、と思うようにもなりました。あらためてテクニックというものの深さと大切さを感じています。
薩摩琵琶には、永田錦心、鶴田錦史など個人の魅力ある演奏家は居ましたが、大正昭和に成立した音楽なのでまだ歴史も浅く、能や長唄のような洗練熟成された古典作品というものがありません。しかしながら世阿弥も「古典を典拠にしろ」と言っているように、琵琶奏者として、寄って立つ所が何処かというのは大きな問題です。だから私は琵琶楽のルーツを辿って、樂琵琶に行き着いたのです。樂琵琶に出逢ってから、またその奥にあるアジア大陸の音楽が見え、そこからまた琵琶楽の長い歴史と流れが見え、現代琵琶楽の薩摩琵琶があらためて見えてきて、自分の想いも世界観もだんだんと出来上がって行きました。これら全てが私のテクニックです。
素敵な音楽を創ってゆきたいですね。