無垢な魂

愛知~静岡のツアーから帰って来ました。

小栗3今回は小栗家住宅という、半田市にある古民家の座敷で尺八と琵琶のデュオによる公演、そして豊田市にある地元の農村舞台での公演、ホールでの公演、最期はこのところ定番となっている沼津の牛山精肉店でのイベントと、様々な形での演奏をしてきました。

そして今回はインド舞踊のエミ・マユーリさんの舞踊団、落語の古今亭文菊さんとも御一緒し、ラストの牛山精肉店ライブでは、笛の相棒 大浦典子さんも駆けつけてくれて、賑々しくやってきました。

愛知での写真が来てないのですが、沼津では義経の兄 阿野全成(今若)のお墓のある大泉寺や、これまた沼津の定番 柿田川にも寄ってきました。
阿野全成1柿田川3
左が阿野全成のお墓 右は柿田川、第一展望台からの眺め

旅をすると色々な出会いがあります。初めて会う方も多いですし、久しぶりに会う方も結構います。とにかく沢山の人と出会うのです。私はこれが実に楽しみなのです。音楽の現場というものは非日常ですので、そこで出会う人も、日常とは違う新鮮な気持ちで接してくれる事が多いですね。今回も10代の若者から80代の方まで実に多くの人と出会いました。
非日常の場に居ると、常識や因習から解き放たれるのか、皆さんのはつらつとした無垢な心を感じる事が多いです。小栗家住宅で共演した尺八の矢野司空さん(現役のお坊さん)が、法話の中で言っていましたが、「人は皆無垢な魂で生まれてくるけれども、生きていく中でそれが捻じ曲がってしまう」と・・・。私もご他聞に洩れず、随分と捻じ曲がって歪みの中で今生を生きていることと思いますが、この歪みを開放し、無垢な状態に戻してくれるものが音楽・芸術なのかもしれません。
150918-s_塩高氏ソロ
岡田美術館にて
感動という言葉は安易に使われている感もありますが、感動を覚える時、人は自分を取り巻く常識や因習、しがらみなどから開放されているのではないでしょうか。関心するという程度では、この開放は味わえない。全てを放り投げて心を奪われるからこそ、日常から開放されるのだと思います。音楽だけでなく、自然の風景に触れた時にも心が開放され、無垢な魂が甦りますね。
そして人が無垢な心の状態で居る時、何かそこには大きな、そして静かなエネルギーが満ちているような気がします。そういうエネルギーを感じる時はいつもさわやかな感触があり、こちらの心のこわばりも、いつしか消えてゆきます。今回も行く先々でそのエネルギーを感じました。
柿田川6柿田川第二展望台からの眺め
音楽や芸術が自然ととても近い存在であるのは、夫々が持っている無垢なエネルギーが共通しているからなのでしょう。表面の形ではなく、内側の心の問題です。いくら伝統の形のものを演奏しても、演奏者に捻じ曲がった心が満ちていたら、やはりそこにはエネルギーも無垢な心も見えてきません。むしろ少しばかり上手なために、自分の存在を誇示するような低俗な精神が、かえって浮き彫りになってしまいます。音楽家は常に音楽に対して、真摯且つ無垢な心で接しないと何も響かせる事は出来ないのです。
この柿田川の滔々と湧き出る富士山からの湧水を眺めていると、輝くばかりの生命を感じます。またその生命を見つめていると、自分の中のひずみや余計な衣が剥がれ落ちて行くようで、自然と無垢な状態へと誘ってくれるのです。
社会と共に生きざるを得ない人間は、どうしても社会の常識やルールを無視しては生きられない。他者とのコミュニケーションから愛が育まれると共に、大いなるストレスも生まれるのは世の常です。そういう中でいつしか無垢な魂がゆがみ、様々なものに囚われ日々を過ごしています。
そこをもう一度この湧水のようにまっさらで無垢な生命に戻すには、音楽が必要なのかもしれません。世界中どの民族にも独自の音楽があることを思うと、音楽を創り出すという事は、人間に与えられた、生きてゆく為のとても大切な特殊能力なのかもしれませんね。
3
笛の大浦典子さん,俳優の伊藤哲哉さんと
今年は夏から秋にかけて地方公演が続き、多くの場所で、沢山の出会いを件検する事が出来ました。私はこうして色々な場所に連れて行かれ、その旅の中で多くの事を学び、考え手行くのが、与えられた人生なのでしょう。
この度はまだまだ終わりません。来月は頭に京都、そしてまた愛知、静岡、鎌倉、秩父と続きます。この人生を全うしたいですね。

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