急に汗ばむような陽気になりました。何だか体が追いつかないですね。今月来月は気の抜けない演奏会も立て続いているので、気持ちを引き締めて行かないと。
23年前のCD 皆本当に若い!!! 尺八:グンナル・リンデル、十七絃:カーティス・パターソン、鼓:藤舎花帆、筝・三味線:佐藤紀久子
先日、ストックホルム大学で教鞭をとっているグンナルリンデルさんの日本音楽史講座で、少しばかり特別講義をしました。スマホ一つでストックホルム大のキャンパスと繋がるんですから凄い時代になったものです。21年前にスウェーデンに行った時には、塩高スペシャルの大型琵琶を抱えてコペンハーゲンから電車に乗って、途中マルメに寄って何日かホームステイして小さなライブなんかもやって、何日もかけてのんびりストックホルム迄行って、大きな講堂で特別講演をやったことを思うと、時代の流れを感じますね。私はのんびり電車の旅の方が好きですが、とにかく自分を取り巻く社会環境の変化は、生き方そのものが一変しますね。ただどんなに世の中が変化しても、変わらない大事な部分を忘れないようにしたいといつも思っています。
どんなジャンルでも、今はまるでAiが演奏しているんじゃないかと思えるような技術を披露する人が溢れています。ロックギターを学校で勉強する時代ですから、何でもかんでも分析して弾けるようになってしまうのでしょうね。しかしながら創り出すという人間の営みを忘れて、びっくり大会のパフォーマンスになって行くのはいただけないですね。
これは邦楽でも同じで、民謡ではプロ歌手がどんどんと登場して、皆さんとても上手なんですが、労働歌としての民謡を歌える人はもう表に出て来ないですね。プロとして「民謡」というジャンルの音楽を歌っている人は居ますが、民謡本来の土地の歌としての魅力を感じる人は本当に少なくなりました。大体民謡に家元制度が出来上がっているというのだから、あきれてものが言えません。八重山や奄美の民謡は、まだ大工哲弘さんや前山慎吾君が島の人間として生活し、且つ幅広い活動を展開していますので大丈夫だと思いますが、本土の民謡はどうなるのでしょうね。今やジャズも、和音やスケールをお勉強して指がシステマチックによく動く上手な方は山のようにいますが、かつてジャズが持っていた色や匂いはものの見事に、綺麗さっぱり無くなってしまいました。現代は何でも表面上高性能なものが溢れていますが、実は大事なものを忘れているのではないかと感じているのは私だけではないと思います。
私が最初に習った高田栄水先生などの明治生まれの演奏家は皆「節」で歌っていました。メロディでもなくドレミでもない邦楽の節です。邦楽は節の組み合わせで曲が出来上がっていて、その節を持って一派を立てるという事をしてきたので、曲によってメロディーが変わる西洋の音楽とは根本からして構造も感性も違うのです。鶴田錦史の演奏を聞いてもしっかり日本の節ですね。ああいう歌い方は洋楽の頭では真似出来ません。しかしそれ以降の世代になると、もう節が消えて、正確な音程と綺麗な声でメロディーを歌う、新たな琵琶唄になって行きました。特にT流はそれが顕著ですね。完全に以前の琵琶唄からは決別したのでしょう。それが琵琶の新時代とみるかどうかはリスナー次第。
私は弾き語りという形式自体がジャンル関係なく好みではなく、一応琵琶語りも少しばかりやってみたものの、やっぱり全然好きになれず、私がやるべきものではないと思ったので、レクチャーなどで必要な時以外はほとんど弾き語りはやりません。だからこそ冷静な目で琵琶唄に関して外側から視線を向けているのです。正直な意見としては、今琵琶唄の節は消えつつあると感じています。もう少し言い方を変えるともうそこに、かつて琵琶唄を創り上げた身体が無くなりつつあるという事です。もう声の出し方も違えば、良いとする基準も感性もかつての邦楽のそれではない。結局演奏者がそれぞれ持っている背景や身体が、明治に生まれた高田先生や鶴田錦史とは変わってしまったという事だと認識しています。
明治生まれの琵琶の先輩方々は、昭和戦後生まれの若い世代が出てきた時、その正確な音程と一定に安定して狂わないリズム感にびっくりされたことでしょう。まあ草履や下駄で歩いていたところに、さっそうと革靴を履いてぱっりっとしたスーツを着て登場したようなもので、表面の化粧が全く変わっていたという事です。ただ表面だけなら良かったのですが、歩き方から思考、感性まで変わって、その身体そのものが変わっていました。

音楽、特に歌は、理解するものでなく共感するもの。時代と共にリスナーの感性も変わって行きます。言葉をいくらコブシ回して技で表現しようとしたところで、その歌詞の持っている世界や想いが伝わらなければただの技芸。リスナーは上手い下手では聴いていないのです。だから昔のままの「節」が残されていれば伝わるなんてことも無いし、逆に綺麗な声と正確な音程で歌えば伝わるという事もありません。いくら形式や技が昔と同じでも、現代の人が何も感じないのであれば、それはただの骨董品でしかない。時代と共に音楽が在るには、新しい感性に訴える新たな技も必要なのです。どんなものでも時代と共にあるという基本姿勢を忘れると、見向きもされません。「節」一つとっても、その形ややり方ではなく、もっと奥にある「根理」をどう見て、次の世代に何をどう伝えるのか、問われていますね。
現代の日本人は、普段から和服は一切着ることなく、
洋服を着て過ごし、欧米の流行の服を着る事に満足感を得るという感性になりました。そして同時に日本人としての身体も変わってしまいました。今は筋肉中心で動く西洋人の動きが学校の体育やスポーツで取り入れられ、その方向でトレーニングして成績を競っていて、それが普通だと思われています。早く走る事や、瞬発的なパワーが求められ、重心や骨格を使って動いていた本来の日本人の持続力のある身体の動きはすっかり忘れられてしまいました。今や能や古武術でも学ばない限り取り戻すことが出来ません。よくネットで、左の米俵をいくつも担いでいる女性の写真が出ていますが、筋肉で持ち上げようとしたら、とてもじゃないけど出来ません。骨格や重心を使えたから、ああいう動作が自然に出来るのです。邦楽も同じ事。洋楽的な音程と発声でメロディーとして歌を捉えると、以前の琵琶唄は歌えなくなります。
大事な事は、モダンスタイルの表面の形ではなく、大切なものをしっかりと持って、次のステップを踏むことが出来るのかという事。現代の琵琶唄は発展なのか、それともただの洋楽かぶれなのか。皆さんはどう思いますか。
私は永田錦心がかつて言ったように、洋楽を取り入れ、新たな次世代の琵琶樂を作ろうと思っています。しかしそれには、その根幹にあった「間」や音色、そして節で出来上がっていた構造等、琵琶樂を創っていたそんな部分に目を向けるようにしています。その為には身体がとても大事ではないかと思っています。土台は常に邦楽であり、日本人の身体であり、その土台の上に色んなものを取り入れるのは賛成ですが、和楽器でポップスを弾いているだけでは、楽器が変わっただけでただお化粧を変えた洋楽に過ぎない。
ジャズに革命をもたらしたオーネットコールマンは「耳には聞こえても、目に見えない事を表現できる」と言っていましたが、これは私にはとても大事な言葉なのです。現代はビジュアルがあまりに強すぎ、歌の歌詞もすぐに理解出来、目の前に見えるような内容のものが多い。オーネットはまた「人間にとって音とは、太陽にとっての光のようなもの」とも言っています。人間が生きてゆく事と別に考えることが出来ない程に、音楽が生きる事と直結しているのです。
そして太陽の光は直接降りそそぎ、すぐこの身を暖かくしてくれますが、その恩恵はそこに留まらない。あまねく物事に降りそそぎ、人間が生きてゆく上で、身体にも心にも必要不可欠のものとして、根幹として人間に不可欠のものです。そして光そのものは何も変わらない。現代の音楽は、そんな太陽の光のような人間の根幹になっているとは私は思えないのです。人生のある部分で目の前をエンターティンする事には長けていますが、あまりに一時的限定的な所で終わっているように私には思えるのです。伝統邦楽も生の営みの中から湧き出でていただろう、かつての邦楽を今もう一度見直しても良いのではないでしょうか。演者それぞれが持っている背景をもう一度確認して、且つ今生きている時代から逃げることなく、しっかりと見据え、その上で自身の根幹に流れているものを見つめ直す時期なのかもしれません。
6月8日(水)第195回琵琶樂人倶楽部「琵琶トーク」
場所:名曲喫茶ビオロン(JR 阿佐ヶ谷駅北口駅徒歩5分)
時間:19時開演
料金:1000円(コーヒー付き)
日本人の日々の営みの中に邦楽・琵琶樂が密接に関わるようになって欲しいですね。