この所本当にさわやかな天気が続いていますね。
先週はそんな気持ちの良い中、第189回琵琶樂人倶楽部、東洋大学伝統文化講座、そして平塚にある八幡山洋館にて「秋風楽~琵琶と笛、朗読の会」をやって来ました。八幡山洋館は窓から見える庭も素敵な場所で、以前よく演奏した横浜のイギリス館をこじんまりとした雰囲気があり、会場の響きも抜群。勿論大浦さんとのコンビネーションもいつものようにばっちりで、充実した内容で演奏出来ました。
今回は毎度お世話になっている文藝サークル「カトレアの会」の主催で、第一部に児童文学作家のあまんきみこさん原作の「青葉の笛」を平塚のサークルの方お二人が朗読をして、第二部は笛と琵琶の演奏会という内容でした。あまんさんの作品を声で聴くのは初めてでしたので、お二人の朗読は私も楽しみにしていました。
ところが当日朗読する二人の指導をしている方が稽古をしている中で、あまんさんの原作に手を入れ始め、数十ヵ所にカットを入れ、しまいには義太夫節を付け加えたりと、もうやりたい放題に改作してしまっているという事が判り、さすがにこれは良くないという事で、僭越ながら意見をさせていただきました。しかも今回は原作者であるあまんさんに何の断りもなく勝手にやり出したというのですから、言葉が出ませんでした。最終的には舞台で朗読する二人に話をして、本番では原文のまま朗読して頂きました。本番での朗読はなかなか堂に入った朗読で、随所にお二人の工夫も感じられて良い朗読でした。
確かに読むための作品を声に出して朗読しようとすれば、カットしたくなる部分も出てくるでしょう。特に笛の大浦典子さんが音を添えてくれたので、言葉をカットして笛の音だけにしたくなるのも判ります。しかしながら、まるで作品をただの素材やネタのように扱い、自分がやりたいように蹂躙するが如く切り刻んでしてしまうという事は、当然の如くあってはなりません。それは作品に対する冒涜です。そこには作品や原作者に対する敬意も尊敬も感じられません。
今回は本番で朗読をする方が、指導者のあまりの勝手なやり方に、さすがに心配になってこちらに連絡して来て判った次第なのですが、あのままやっていたら著作権法違反にもなっただろうし、会場にはあまんさんのファンの方も来ていたそうですので、大問題になっていた事でしょう。現役で活動している作者に対し、作品を朗読させてもらうだけでも原作者に相談するのが筋というものでしょうし、ましてや手を入れるとしたら、台本を診てもらって、了解の上やるのが当たり前。芸術に携わる人間のやる事とは考えられませんね
音楽でも何でもちょっとばかし技術を得た人は、音楽をやるよりも己の技量を見せつける事に凝り固まってしまって、作品に対する敬意も芸術に対する謙虚さも忘れて餓鬼のようになってしまうものです。自分の技量を披露しやすいネタを選び、更に披露しやすいように勝手に改作するような事は、もう芸でも何でもありません。「です」を「でした」に変えるだけでも全く文章のリズムも印象も変わってしまうのに、作者が心血注いで紡ぎ出した言葉を勝手に変えるなんてことは冒涜と言われても仕方がないですね。やりたいようにしたければ自分で創れば良いのです。創り出すことがどれだけ大変なものか。そして紡ぎ出された言葉や音がどれだけ尊いか実感するでしょう。
古典でも現代作品でも作品として存在している尊さが解っていないからこういうことを平気でやって、その上入場料まで取って稼ごうなんて発想をしてしまうのです。それはもう舞台人のセンスではないですね。
誰しも初心の頃、作品に魅力を感じて、舞台に感激して自分でもやってみたいという想いが湧き上がった事と思います。そんな頃、作品にも舞台にも謙虚な心で向かって行っただろうし、自分がやらせてもらうのがとても嬉しく思ったのではないでしょうか。そんな初心の頃の純粋な気持ちを忘れ、自分のわずかばかりの技術を見せつけよう、という偏狭な心に陥ってしまうというのは、本当に残念です。もう一度我が身を振り返って、芸術に携わり、舞台に立って生きて来れた事に感謝を持ち、芸術に対して謙虚な心を取り戻して欲しいものです。
私は著作権は人権と同じだと以前から主張しています。だから著作権が残っていようが残っていまいが、作品に対しリスペクトを持てないようでは舞台に立てないと思っています。アーティストが創り出し産み落とした作品を、勝手にもてあそび、感謝も何も無く商売の道具にして、商売のネタにするという事を、作品=人間に置き換えてみればどうでしょうか・・。芸術に携わる人はよくよく我が身を振り返り、考えて頂きたい。
何気なくやっている流派の曲でも、例えば薩摩琵琶の「敦盛」などは(大正~昭和時代辺りに作られたものだと思いますが)、最期に敦盛が名乗りを上げる部分が付け加えられ、原作の意図する所とは全くかけ離れてしまっている内容になっているようなものもあります。そういうものは仲間内では通用しても一歩外に出たら通用しません。そんな所をろくに考察もせずに、稽古したからといって安易にやってしまうのは音楽家として芸術家としてアウトだと私は思っています。孔子も「国を変えるなら樂を変えよ」と言っていますが、それだけ音楽・芸術は人間にとって大切な行為であり、人間の根幹にかかわる神聖な行為なのです。
現代では小さな演奏会でもそのまま世界に配信される時代です。いつまで経っても村意識から離れられず、世界の中の私という事が解らないままでは現代で舞台活動はやって行けません。特に邦楽は先生と言われている人のほとんどは、受賞歴や流派のお名前の看板を挙げていても生業として世の中で活動をしておらず、プロではありません。多少の技や知識はあるかもしれませんが、生業にも出来ず、著作権はおろか世界標準の感覚も判らない人が次世代を育てる事が出来るのでしょうか。私はいつも疑問に感じています。
芸術は常に「世の中」と共に在るのです。現代ではその「世の中」がネット技術で全世界対象となっているのです。頭の中が流派や協会、仲間内という所にしかないと、仲間内では当然のことも外に出たら犯罪になりかねません。何とか流の私ではなく、世界の中の私なのです。過去に寄りかかり、流派や協会に寄りかかり、そのくせ自己顕示欲だけは人一倍というのではお話になりません。今一度、初心に帰り、作品や舞台、そしてそれを創り出した人に対し敬意と尊敬を持って、独立した一芸術家として取り組んで頂きたいものです。